このレッスンでは、会社の中にある知識を「暗黙知」と「形式知」の2つに分けて見る目を作ります。哲学者 Polanyi(マイケル・ポランニー)の一文から始め、経営学者 Nonaka(野中郁次郎)が経営に持ち込んだ二分法へ進みます。
到達目標は1つです。 あなたの会社の暗黙知を3つ挙げ、誰が持っていて、その人がいなくなったら何が止まるかを書けるようになることです。
なぜ最初にこの区別を学ぶか。会社の仕事の多くは、言葉になっていないまま人の中にあるからです。 ベテランが辞めた日に見積もりの精度が落ちる、という出来事は、その知識が言葉になっていなかったことの現れです。区別ができると、何を残すべきかが見えます。
人は語れる以上のことを知っている
人は、自分が説明できる範囲より多くのことを知っています。 Polanyi は 1966 年の著書『The Tacit Dimension』を、「We can know more than we can tell(人は語れる以上のことを知っている)」という事実から始めると宣言しました(出典1)。
例えるなら、自転車の乗り方です。乗れる人は体で知っていますが、「どうやってバランスを取るか」を言葉で教えて乗れるようにはできません。人の顔を見分けるのも同じで、知人の顔は一目で分かるのに、どこで見分けているかは言えません。
| 知っていること | 言葉にできるか |
|---|---|
| 自転車に乗る | 乗れるが、バランスの取り方は説明できない |
| 知人の顔を見分ける | 見分けられるが、どこを見ているかは言えない |
| 難しい客への最初の一言を選ぶ | 選べるが、なぜその言葉かは本人にも曖昧 |
3行目が、会社の中で毎日起きていることです。 説明できないから知識ではない、とは言えません。説明できないまま、確かに仕事を動かしています。
あなたの会社で「あの人に頼めばうまくいくが、理由は誰も言えない」という仕事を1つ思い浮かべてから、次へ進みましょう。
野中は知識を暗黙知と形式知に分けた
Nonaka は Polanyi の考えを受けて、知識を「形式知」と「暗黙知」の2つに分けました。 1994 年の論文での定義は、形式知が「形式的で体系的な言葉で伝えられる知識」、暗黙知が「個人的な性質を持ち、形式にしたり伝えたりしにくい知識」です(出典2)。
同じ論文には、言葉や数字で表せる知識は「あり得る知識の全体から見れば氷山の一角にすぎない」とあります(出典2)。水面の上に出ている部分が形式知で、水面の下の大きな塊が暗黙知です。
| 形式知 | 暗黙知 | |
|---|---|---|
| 形 | 言葉、数字、図、手順書、データ | 勘、コツ、体の動き、ものの見方 |
| 伝え方 | 文書を渡せば伝わる | 一緒に働かないと移らない |
| 会社での例 | 価格表、就業規則、業務マニュアル | ベテランの見積もりの勘、クレーム対応の間の取り方 |
| 人が辞めたら | 残る | 一緒に消える |

暗黙知は「行動、関与、特定の文脈への没入に深く根ざしている」と Nonaka は書いています(出典2)。だから机の上で思い出して書こうとしても、なかなか出てきません。その場に立って初めて出てくる知識です。
あなたの会社のマニュアルと、マニュアルに書かれていない「現場の判断」を、この表の左右に振り分けてみましょう。
暗黙知には技能と考え方の2つの要素がある
暗黙知は、手足で覚えた技能と、頭の中の見方の2つからできています。 Nonaka は暗黙知に「技術的要素」と「認知的要素」があると整理し、前者を具体的なノウハウや技能、後者を人が世界を捉えるときの「メンタルモデル」(信念、視点、ものの見方)だと説明しました(出典2、3)。
なぜ2つに分けるのか。残し方が違うからです。技能は隣で見せれば移りますが、考え方は「なぜそう判断したか」を本人に問わないと出てきません。
| 要素 | 中身 | 会社での例 | 残すときの向き |
|---|---|---|---|
| 技能 | 手順を体で覚えている | 機械の異音を聞き分ける、見積書を30分で仕上げる | 隣で見せる、やらせる |
| 考え方 | 何を大事にし、何を疑うか | 「この客は値引きより納期を気にする」と見抜く | 判断の理由を問う |
経営者の暗黙知は、多くが考え方のほうに入ります。 「この案件は受けない」と即答できる理由を、本人も一言では言えないことがあります。そこに会社の判断基準が埋まっています。
レッスン02 で扱う「表出化」は、主にこの考え方のほうを言葉にする作業です。ここでは、自分の暗黙知がどちらに多いかを見ておきましょう。
暗黙知は人と一緒に消え、形式知は裏付けを失うと薄れる
2つの知識は、片方だけでは長持ちしません。 Nonaka らは 2000 年の論文で「暗黙知の洞察を欠いた形式知は、すぐに意味を失う」と書いています(出典3)。マニュアルだけが残って、なぜその手順なのかを誰も知らない状態がこれです。
逆に暗黙知だけの会社では、知識が人に付いたまま動きます。1994 年の論文は、共有経験だけで作られた知識は「共有できる範囲が限られ、それが作られた文脈の外では使いにくい」と指摘しています(出典2)。
| 状態 | 何が起きるか |
|---|---|
| 暗黙知だけ | 人が辞めると消える。支店を増やせない |
| 形式知だけ | 手順は残るが、例外に対応できない。なぜかを誰も言えない |
| 両方が行き来する | 人が入れ替わっても回り、例外が出たら手順が更新される |
3行目の状態を作る方法が、次のレッスンで扱う4つの変換です。 ここでは「両方が要る」ことだけ持ち帰ってください。
あなたの会社のマニュアルを1つ開き、「この手順の理由を言える人は誰か」を考えてみましょう。誰もいなければ、その形式知は裏付けを失いかけています。
演習
演習
あなたの会社の暗黙知を3つ挙げ、次の表に書いてください。演習の題材は、自社のものに置き換えて構いません。
| 暗黙知 | 誰が持っているか | 使う場面 | その人が明日いなくなったら止まること | 技能か考え方か |
|---|---|---|---|---|
| (例)改修工事の見積もりの勘 | 工事部長 | 現地調査のあと | 見積もりの精度が落ち、赤字案件が増える | 考え方 |
| (自社の暗黙知1) | ||||
| (自社の暗黙知2) | ||||
| (自社の暗黙知3) |
成果物は、3行が埋まった表と、「止まること」がいちばん大きい1つを選んだ理由の一文です。次のレッスン以降、その1つを題材に進めます。
出典
出典
- 出典1: University of Chicago Press「The Tacit Dimension」(Polanyi, M. 1966。2009 年版の紹介ページ。「We can know more than we can tell」の引用を確認) https://press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/T/bo6035368.html (確認日 2026-09-18)
- 出典2: Nonaka, I. (1994)「A Dynamic Theory of Organizational Knowledge Creation」Organization Science 5(1), 14-37. https://doi.org/10.1287/orsc.5.1.14 (本文は https://www.lamsade.dauphine.fr/~giard/Organization_Science_Nonaka94.pdf で確認。確認日 2026-09-18)
- 出典3: Nonaka, I., Toyama, R. & Konno, N. (2000)「SECI, Ba and Leadership: a Unified Model of Dynamic Knowledge Creation」Long Range Planning 33(1), 5-34. https://doi.org/10.1016/S0024-6301(99)00115-6 (本文は https://agileconsortium.pbworks.com/f/Nonaka_etal_2000_SECI.pdf で確認。確認日 2026-09-18)